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都の人々を魅了した三層の南蛮寺姥柳町にあったイエズス会の教会跡。 織田信長が天下布武を目前に、安土城を築いていた1575年。京都では教会の建築が始められました。翌年の7月に完成したこの壮麗な教会は「都の南蛮寺」と呼ばれ、教会から鳴り響く美しい鐘の音が京都の人々のあこがれを誘ったと伝えられています。 |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 南蛮寺跡信長が討たれ、秀吉の世になり禁教令が出され、更に徳川幕府の徹底的な弾圧を経たため、現在は碑が残っているのみです。 1576年に完成した南蛮寺では、7月21日(西暦では8月15日)に初のミサが荘厳に執り行われました。 それまでも個人の家などを利用した教会はありましたが、このような本格的な教会の建築は、京都では初めてのことでした。 建設にあたり多大な資金援助したのは高槻城主であった高山右近。教会建築に情熱を傾けた右近は、切り出した木材を自らかついで山から下りて来たと伝えられています。 三階建ての木造建築だった南蛮寺は打ち壊されましたが、狩野元秀(狩野永徳の弟)の筆による南蛮寺の絵が残っています。扇に描かれた南蛮寺の絵は神戸市立博物館に収蔵されています。 ![]() ![]() |
南蛮寺跡の説明板「南蛮寺跡 織田信長の時代に、耶蘇会によって建てられた南蛮寺は、この北側、姥柳町の地にあったと推定される。戦国末期、京都でのキリスト教布教は、永禄2年(1559)から本格化し、永禄4年にこの付近に礼拝堂が設けられた。数々の迫害にあいながら、耶蘇会宣教師は、布教に努力、織田信長の保護もあって信者は拡大した。天正4年(1576)、ふるくなった礼拝堂を再建することにし、数百人の信者の協力と所司代村井貞勝の援助で完成、献堂式のミサが行われた。これが南蛮寺で、信者の間では、珊太満利亜上人の寺とも呼ばれ、京都におけるキリスト教と南蛮文化の中心となった。しかし、天正15年(1587)九州征伐を終えた豊臣秀吉は宣教師追放令を発し、キリスト教弾圧に転じた。南蛮寺もこのときに破壊され、ついにこの地には復興されなかった。京都市」 と書かれています。 |
![]() 現地への行き方 阪急電鉄「烏丸駅」、地下鉄「四条駅」から徒歩15分。住所は京都市中京区蛸薬師通室町西入る姥柳町です。 ![]() この地図は大体の位置を示すものなので、訪問の際は現地の案内や地図で所在地を確認してください。
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