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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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上京教会跡

                              京都府教会跡

信徒が増えたために教会を分けた


1600(慶長5)年に建てられたイエズス会の教会があった場所。

建てられたのが慶長年間だったため、別名「慶長天主堂」。信徒が増えたために下京教会を分けて建てるようになった教会で、毎年100名を超える受洗者がいたといわれています。

(私が訪問した時は下の写真のような状態でしたが、その後整備され、現在は金網の外に碑が建てられています。リニューアル後の写真は、ページ末に挙げたカトリック京都司教区のサイトに載っています)


上京教会跡

上京教会跡


金網ごしにしか見ることができない「此付近 慶長天主堂跡」の碑とその説明板。

何かの施設の敷地内にあるとはいえ、あんまりだと思います。史跡を目当てに京都を訪れる人を失望させる扱いではないでしょうか。

歴史には負の部分もありますが、それも千年の都・京都の歴史の大切な1ページとして保護し、後世に伝えていく努力をしてほしいものです。

上京教会跡 碑と説明文

碑と説明文


上京教会の初代司祭はエマヌエル・バレト。次にバルタザール・トレス、そして1607年からはベント・フェルナンデスが担当しました。

またミゲル木村修道士が神父らを助けて働いていました。この辺り一帯は、公家、武士階級の居住地であり、多くの人が信徒になりました。1612(慶長17)年キリシタン禁令で閉鎖に追い込まれ、のちに破壊されて現在に至っています。

上京教会跡の説明板


「この付近に慶長9年(1604)頃に復興された耶蘇会の天主堂教会があった。京都でのキリスト教布教は信長の保護のもとに本格化し、南蛮寺も建てられたが、天正15年(1587)豊臣秀吉が追放令をしき、弾圧した。秀吉の死後、宣教師らは布教の許可を得ることと寺の再建に努力した。関ヶ原合戦で徳川政権が確立すると、再びキリスト教布教が自由となり、この地に、新しい天主堂が復興された。旧南蛮寺よりはるかに美しい建物といわれ、宣教師が常駐し、荘厳なミサが行われた。付近には学校も設けられた。しかし慶長17年(1612)、徳川幕府はキリシタンの大弾圧を開始、天主堂も焼き払われてしまった。慶長天主堂が立ったのは、10年に足りない期間であった。京都市」と説明板には書かれています。

上京教会跡
上京教会跡
上京教会跡
上京教会跡説明①
上京教会跡
上京教会跡説明②
上京教会跡
フェンス越しに見る
だいうすつじ
この辺りに
だいうすつじ
「だいうすつじ」が
だいうすつじ
あったという




 現地への行き方
地下鉄「今出川駅」より徒歩20分。一条戻橋や晴明神社から行く場合は、堀川の元誓願寺通を東に入り、5分ほど歩くと右手に見えてきます。住所は京都市上京区油小路通元誓願寺西南角です。



この地図は大体の位置を示すものなので、訪問の際は現地の案内や地図で所在地を確認してください。
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