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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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二条城

                              京都府キリシタン関連史跡

都の大殉教の時の京都所司代が造営にあたった


旧二条離宮跡に建つ現在の二条城は、関ヶ原合戦・大坂の陣に勝利した徳川家康が二条堀川の西(現中京区二条城町)に建てた城。慶応2(1866)年、最後の将軍となる徳川慶喜(よしのぶ)が大政奉還を行ったのもこの城です。ここは世界文化遺産として登録されています。

二条城の造営総奉行であったのが、板倉勝重です。勝重は息子の病気をフランシスコ会の病院で治してもらったことがあり、復活祭には教会に来て寄付もしたことがありました。

その後勝重は京都所司代となりましたが、禁教令に反してできるだけキリシタンを捕縛しないように努めました。しかし伏見に来た徳川秀忠の直々の命令でキリシタン処刑をしなければならない立場に追い込まれました。

1619年10月6日、52名が火あぶりとなった都の大殉教―――。
勝重は信徒の苦しみが早く終わるよう高価な薪をうず高く積み上げたと伝えられています。

二条城

ライトアップされた二条城


板倉勝重はキリシタンに好意的で、禁令を受けてやむなくダイウス町の信者を牢に入れましたが、できるだけ穏便に済まそうとしていました。

しかし伏見城を訪れていた秀忠はそれだけでは許しませんでした。火あぶりにするようにと将軍自ら指示したので、勝重は仕方なく従いました。

勝重は一条戻橋で耳や鼻をそぐ恒例の儀式をあえてせず、墓標にも使われなかった見事な白木の十字架を用意しました。

二条城

二条城の石碑


そして殉教者が長く苦しまないようにと、40両もの大金を投じて大量の薪を準備してうず高く積み上げました。

また当時通常の罪人の処刑地である、六条河原から意図的にずらした場所(三俣氏の説による)、正面通河原で処刑しました。

キリシタンでなくても良心的に彼らを扱った人々が、当時もいたということがわかるエピソードです。


二条城
二条城の櫓
二条城
二条城の石碑


 現地への行き方
地下鉄「二条城前駅」より徒歩1分。開門時間などはインフォメーションを参照してください。



この地図は大体の位置を示すものなので、訪問の際は現地の案内や地図で所在地を確認してください。
インフォメーション


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